翔龍shoryuの忍たま日記

『忍たま乱太郎』について色々と書いていくブログです。『ドラゴンボール』や藤崎竜さんの『封神演義』のレビューも書いています。

「導なき道へ…㊤」 『封神演義』第201回

「導なき道へ…㊤」
封神演義』第201回

 

封神台が解放された事によって、これまで封神された人物が太公望達の周りに現れる。
個人的に驚いたのが呂岳と馬元が一緒にいた事。あんな事があってよく一緒にいられたなと思ったが、この親子は愛情の示し方に大きなすれ違いがあったけれど、呂岳も馬元も相手の事を嫌いではないんだよね。(そこがこの親子の大変なところでもあるが)

 

「ボンクラ」「あーた達だけに任せちゃおけねぇ」と天化の発言が何気に酷いが、それが逆に今の太公望と天化の間にはわだかまりが無いと言う事の証明になっているように思える。

 

自分の解釈では趙公明の美学とは「王道の少年漫画」なので、「かつて敵であった者達が共通の敵を倒す為に力を合わせる」と言う王道展開はむしろ望んでいたのではないかと思う。

 

「行け伏羲…いや太公望よ!!!」と声をかける元始天尊。わざわざ言い直している事から「今こそ人は道標を外れる時じゃ」と言う言葉は始祖・伏羲に対してではなく弟子・太公望に向けて言った言葉だと分かる。(もう一人の弟子である王天君はどうした?とも思うが)

 

伏羲が力を集め終わる前に勝敗を決しようとする女媧を見て思わず「太公望!!!」と叫ぶ燃燈道人。燃燈道人も「王奕」と「太公望」を使い分けているが、実は焦ったりしている時は殆ど「太公望」呼びとなっている。

 

皆の力を集め終わった太公望の姿は顔から文様が消えてどことなくスッキリした感じとなっている。肉体的な変化は前回までの顔に文様がある方が大きかったのだが、今回の髪が白くなった姿はどことなく神々しさを感じた。『ドラゴンボール』の超サイヤ人もだが、髪の色を変えるだけでここまで雰囲気が変わると言うのが面白い。

 

太公望と女媧の最終決戦は今回は太公望の圧勝に終わる。
戦闘で主人公の圧勝で終わるのは時として盛り上がりやカタルシスに欠ける事があるのだが、今回は何度も復元する事が出来る女媧の底無しのエネルギーをガンガン削っていくと言う展開になっていて、遂に女媧の肉体に限界が見えた時は「ようやくここまで来た!」と言うカタルシスがあった。これはバトル漫画と言うよりゲームのヒットポイントが尋常ではないタイプのラスボス戦に近いかな。

 

女媧を追い詰めた太公望は一瞬だけ恐ろしいと言うか悪役っぽい笑みを浮かべる。以前にも太公望は戦う事が目的の趙公明を理解できるような発言をしたり、聞仲との戦いでも最後の殴り合いを楽しんでいるような瞬間があった。
これは「戦う事が楽しい」と言う少年向けバトル漫画によく見られる主人公像が太公望の中にもあると言う事かもしれない。『ドラゴンボール』の孫悟空のように太公望もどこかで強敵との命を懸けたギリギリの戦いを楽しんでいたのだ。
しかし、今回の笑みのように戦いを楽しむ太公望の描写は決して印象の良いものではない。これは「戦いを楽しみ、戦う事を求める」事の危なさを示していると思われる。たとえば『ドラゴンボール』も孫悟空が戦いを楽しむ事で新たな問題を引き起こす事があった。人造人間編は孫悟空が最初に人造人間の誕生を阻止していれば多くの犠牲は出なくて済んでいた(その責任を取ってか、人造人間編の最後で孫悟空は自分の失敗の償いをして死んでしまい、さらにその死は無駄死にとなる)し、『幽☆遊☆白書』でも仙水との戦いで戦う事そのものを目的とする事の危うさが指摘されている。
自分は未読なのだが、確か安能務版の『封神演義』では「殺劫」と言う「仙人でも殺人衝動は完全には克服できない」と言う設定があるようなので、その「殺人衝動」を「戦いを楽しみ、戦う事を求める」として描いたのかもしれない。

 

導なき道へ…㊦」に続く。

 

 

封神演義 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

封神演義 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)